HUNTER's LOG on PORTABLE

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2009.08.02 沁さん

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HUNTER's MAIL vol.4

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怖い話の辿り着く先

tri-発売日に送るメールではないことは重々承知しております。でも書かずにいられなかったので筆を取り……とってないや。これ電子メールだった。……ええもう、矢継ぎ早にお返事へのお返事をしてしまって申し訳ないです。(ごまかした!)

こうなってしまうであろうことが容易に予想できたものでして、最初の(怖い話云々の最初です)メールをためらっていたのですが……送ってしまったものは仕方がない。

実際、こういうことについて論理的に話して下さる方っていうのをあまりしらないわけでして、LOGさんがそこに触れる内容を書かれたのにつけこんで、話を持っていってしまいました。

オオモノというか、難物だったことと思います。
私の書き方もいちいちおかしいですものね。自分で読んでもいまいち何が言いたいのかわかりませんもの!

LOGさんがお返事に書かれたことはいちいちごもっともでして、それはおぼろげに理解しているつもりでおります。そう思い込んでいるだけかも知れないのですが、一応そのつもりでいるのです。

私が言いたかった信仰の試練というのは……前のメールに書いたことと矛盾してしまうのかもしれませんが、やはり"その宗教"におけるもの、なのでしょう。
「整合性が示せないこと」など私は問題としていませんし、「示せる可能性」というのも……というのもなんだ?というかそんなもん示せるのですか?ていうか私は、「ドラゴン」の項でそんなもんは読みとっちゃいねえのです。

それでも"宗教の示したいもの"や"宗教の成り立ち"なんていうものを人間本位に示されると、神本位である状態が崩れてしまう。そんな気がしてしまう。無宗教教に改宗してしまうのではないかという危機感を覚えてしまう。

えーい、私が恐れていたのは"他を認められなくなること"なのではないかと。って言葉にするとまたあとで違うんだよなーって後悔しそうですが。

たとえキリスト教という宗教にいたとしても、
仏教という宗教にいたとしても、
科学教という宗教にいたとしても、
無宗教教という宗教にいたとしても。
そのことによってそれ以外を認められなくなりたくはなくて、それなのに私の中の宗教のイメージは、他の宗教を排斥するものであるのですよね。

宗教について外部から触れられている何かにこういう反応を示してしまうことも、恐ろしい。

今上手くいっている立ち位置を崩されたくない。
そんな偏執みたいなものなのかもしれません。
こうやって噛みついている(噛みついていますよね……ああ嫌だ嫌だ)のだって、自分の思うところをできる限り正確に開示したいという、恐ろしく自分勝手な心理からのものなのでしょう。

返事があるってのはいいものです。そこから自分の考えを整理できるから。
ゴメンナサイ、利用しちゃってます。

だけどですねー、あんまりしたくはなかったんですよねー。こういう話を。色々な意味で。

結局"怖い話"というのは、こういう話の発端になってしまうであろう話のことだったのさー!な、なんだってー!?

もう本気で土下座して回りたいような気分なのですが、このやりとり(というかいち宗教者の赤裸々っぽい告白によって引き出されたLOGさんの文章)によって、どこかの誰かが少しでも何かを思ってくれたなら、これはこれで意味があったのかしら。

> あたしは長々と(長きゃいいってもんじゃないですが)書いたものが誰かの何かを触発することの方が重要だと思っています。

この一文に集約されているわけですね!わあ、釈迦の手のひら!すごい!
触発されたものが私への反感でなければいいなぁ、と思ってしまう、最後まで自分勝手な私でした。

さて、これで怖い話は終わるでしょうかね。こんなしち面倒くさいメールにお付き合いくださり、本当にありがとうございました。なんだか同じことを繰り返しいっていただけなような気もします。

今度メールをさせていただく折は、もっとくだらない感じのメールにしたいなーと思っていますよ。
ん?それもまた悪いのか?(笑)

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HUNTER's LOG

沁さんまたまたこんにちはー(笑)。

そうか、ここにメールすること自体がトリガーになっちゃう、ということでしたか。しかしそれはどうかしら、やっぱり沁さんあたしの書いたものを過大評価フィルター通しすぎですやん?

あはははは。でもツボを突いちゃうということもあるんでしょうかね。

あたしなんかはもう「中心を持たないこと」に全力をかけた半生という人なんで(それはそれで結構タイヘンなのです)、この心配というのは発生しないんですが、確かに中心軸を据えて、なお周囲のものもフェアに見て行こう、というのは言うは易し行うは難しだと思います。

ただね、そこには結構無用な落とし穴というのもあるですよ。

この辺はお隣中国がきわめてクールにぶった切った考えを示しているので、少し参考になるかもしれません。

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天・地・人の理

天・地・人と言う三要素をあちらでは「三才」と言いますが、この区分がさまざまなスケールで用いられて利便性を示します。「天の刻を識り・地の利を用い・人の和を動かしなさい」などと言ったら軍法などの基本とされますね。

今回の場合は、「天の理(ことわり)・地の理・人の理」というのはそれぞれ「別の話」で、迂闊に混同するとワケ分からなくなる、という視点が参考になりましょうか。

「混ぜるなキケン」ということです。

中国的に言ったら天の理とは天命であり、地の理とは八卦風水であり、人の理とは礼であり………という具合になりますが、これはもう少し「今風」に引き寄せて捉えることもできます。

人の理というのはヒトの脳に準拠し、その脳が生み出してきた記号の世界の由来と広がりを考えることになりましょう。ここにおいては人の問題とは要するに脳の問題である、と誰かの言った通りになります。

地の理というのはこのベースとして想定される生物としての人の有り様を考えることになりましょう。単純に生物学的な、動物行動学的な人間、ということもありますが、「地球上に発生した生命というへんてこりんな存在」というのを丸ごと考えるならば、(「科学的」を自認する方はトンデモなものと苦笑しますが)ラヴロックのガイア仮説や、シェルドレイクの形態形成場の概念なども十分「地の理」の範囲といえましょう。

この二項間はずっと喧嘩してまして、DNAだのなんだの言ったって、「それはヒトの脳がそう認識したものではないか。結局は脳の生み出した産物ではないのか。要するに人は脳の見せる劇場の外には踏み出せないのだ」と「人の理」の中でぺちゃくちゃやってる人々は言います。逆に、「何を言っているのだ、その脳は生物の一器官に過ぎないではないか。その思考そのものがジーンの継承戦略なのだ」と「地の理」の世界ではやんややんやです。

そんな「人の理」と「地の理」は「別の話」じゃんか、ナニ混ぜこぜにして不毛な喧嘩してんだよ、と「割り切りの良い」人は思うわけですが、ここに宗教者が絡むと話はさらにややこしくなるわけです(笑)。

つまり、「それは天の理の話だろう」ということなんです。人の理の中であーじゃないこーじゃないとやってる場に「神」を持ち出しても前回述べた様に「それはヒトの脳の分化にともない……云々」ということで顧みられませんし、地の理の中でわいわいやってる場に持ち出しても「神がサイコロを振る必要があったとは認められない」ということで顧みられないでしょう。

そこから見たらそれはそうなんです。

ということは逆もまた然りでしょう。「天の理」の側から上の人たちを見るならば、人の身ごときが何をピーチクパーチクやってんのかということで、まあ「雀の喧嘩」ですね。なんと矮小な世界を築こうとしてんだオマイらは、ということになります。

しかし、だからといって自分のステージを割り切って後はスルーすりゃイーじゃんと言ってるのではありません。

この「天・地・人」というステージを上手に緩衝剤として用いますと、それぞれのステージを認めつつ、しかし自分が中心とするステージは譲らない、ということは十分可能です。というよりそれを目指すべきだろうと言えます。

かつて、この日本でとある二つの巨頭が相見えました。それぞれがそれぞれの理の土俵に立ちつつ白熱した視線を交わした希有な例です。

一人はMIT人工知能界の雄・マーヴィン・ミンスキー。もう一人はヒッピームーヴメントから連なる精神世界の雄・ティモシー・リアリー。

彼らの交錯の模様に、そのヒントがあるかもしれません。

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楼上のクロスライト

0802a.jpgマーヴィン・ミンスキーはコンピュータテクノロジーの嫡子にして前世紀末の人工知能論の巨大なうねりの頂点にいた研究者です。彼の博士論文を審査した一人はかのフォン・ノイマン。人工知能の開幕を告げるダートマス会議にも名を連ね、その後MITに人工知能研究所を設立し、この分野を牽引していくことになります。

彼の「フレーム理論」は人工知能の分野では古典中の古典ですね。その最小単位は「エージェント」と呼ばれ、例えば「30°の傾きの線分に反応する」エージェントとか、「青色に反応する」エージェント、みたいなミクロなものが膨大に汲み合わさり、再構成されて脳内に「心」を発生させているのだ、と彼は言います。

ミンスキーの大胆なところはそういった還元的なメカニズムで、論理的な思考を再現するメカニズムに止まらず、そこから地続きに「感情」までも視野に入れたことでしょう。彼によれば「感情」とは論理の反対ではなく、論理全体の目標設定をよりハイスピードに切り替えていくためのメカニズムであると考えました。前回も述べましたが、「スピード」がないと生存できないわけです。

実際ミンスキーの「エージェント」に相当する、脳内の神経束が発見され(澤口俊之『知性の脳構造と進化』彼はそれを「コラム」と呼びました)、これは行けるんじゃないか、後はコンピュータの計算速度次第なんじゃないかとまで言われましたな。が、実際はそのようなコラム間のパルスによる連絡は、どちらかと言うと局地的なもので、より全体的なケミカルマシンとしての化学物質の起こす「乱流(カオス)」が脳内の動向を動かしている(津田 一郎『カオス的脳観』)、ということが明らかになるにつれ、人工知能分野は暗礁に乗り上げ、現在に至ります。

0802b.jpg一方のティモシー・リアリーはカウンターカルチャーの聖地カリフォルニアの心理学畑出身。カウンターカルチャーというのはきわめて大雑把に言うならば、「今の人にこの世がかく見えているのは、要するに "たまたま" である。西洋近代からの "たまたま" たどられたラインによってわれわれの世界はこうなっている。人の意識はもっとさまざまな状態を取り得るし、そこでは世界はまったく異なって見える」というものです。ネイティブアメリカンの架空的な「導師」の導きにより、そういった「意識の変容状態(テラ・インコグニダ)」の追求を目指した「ドン・ファン」シリーズがその理想を良く物語っています。

リアリーはそんな中でLSDを用いて意識を変容させる方法を解き、とっ捕まってぶち込まれますが、なんと刑務所の中で囚人達にもその手法を勧め、さらにその上脱獄するという、もう何といいますか、反骨の極みな人でした(笑)。

無論彼の書いたものを今読んだら「地球外政治の夜明け」とか「神経遺伝子回路」とか荒唐無稽過ぎて頭痛がしてきますが、直接的に従来の「神」を信奉できなくなった人間が、新しく「天の理」を語るにはどうしたもんかということを大まじめにやったのが彼(あるいはカンターカルチャーを牽引した人たち)なのです。伝統的な「神」が有効性を減衰させてしまったにせよ、だからといって「人の理・地の理」に閉じてしまうのは大変にキケンだ、と言う直感が彼らを動かしていたのです。

カウンターカルチャーとか、ヒッピームーヴメントとかは、「当時としては」一種のアンチキリストでもありましたから、もしかしたら「良くないもの」と耳にしているかもですが、このようにその手法においては、あるいは今見ればバカバカしいですが、その思惑においては「天の理」を継承せねばならない、という大変真剣かつ重要な動きだったのです。しかも、これ以降その動きは発生していません。現代のスピリチュアルブームなんかリアリー達に比べたら「ごっこ」遊びみたいなものです。

さて、こんな二人が相見えましても、当然のことながら「お話しになりません」。以下、この模様を伝え、鋭い考察を行っている西垣通『ペシミスティック・サイボーグ』(青土社)から引用しつつ、見てみましょう。西垣さんは「情報学」のトップランナーですね。前世紀の「第五世代コンピュータ」開発に外部からですが密接に関わり、その成功と失敗の中から「情報」の根本への思考を推し進めた日本の俊英です。あたしの「電脳」絡みの考えの多くは彼によっています。

予想できたことだが、リアリーは以上の様なミンスキーの理論に真っ向から反対意見をぶつけた。
「〈こころ〉とは魂(ソウル)からできている」とリアリーは断言するのである。

まあ、当然です。リアリーにしてみれば「心」がマシンであるなどと言う発想そのものが馬鹿げている。これは一方のミンスキーにしてみても歩み寄り様はない。

〈こころ〉が「ソウル」からできているとすれば、「ソウル」は何からできているのだろうか?「スピリット」だろうか?では「スピリット」は何から?………というわけで、満足な答えは決して得られないのである。この種の議論はミンスキーが嘲笑するものに違いない。

しかし、これが馬鹿げたすれ違いをもたらしただけの交錯なのかというならば、そうは言えない、と西垣は言います。

けれども、私はリアリーに「ソウル」とは何かと尋ねる気持ちにはなれなかった。なぜなら、リアリーという人物そのものが、「ソウル」のメタファのように思えたからである。

ここには前回も述べた、「カラマーゾフ」のゾシマがイヴァンに示したものと同質のものが見えます。神を糾弾するイヴァンに対してゾシマが示したのは神を擁護する言葉ではなく、ただ一つ信仰の確信だけでした。しかし、その確信がイヴァンのヨーロッパ史上最強ともいえる「反神論」を封じてしまったのです。

「天の理」というのは他の二つと異なり、最終的にその存在を明らかにするものは「確信」であるということです。

そして、その「確信」の姿は、間違いなく「人の理・地の理」を語るものへ影響を及ぼします。なぜなら、前回も述べましたように「言説」というのはどこまで行っても次数を落とした表現でしかないからです。そのドグマの外を決して見ない、という「閉じた」研究者ならいざ知らず、ミンスキーほどにその深底を見極めてきたものならばそこに嘘はつけません。

物理的世界から自由意志が締め出されていることなど、気にする必要はない。自由意志という概念は、われわれの、心の領域のモデルにとって重要なのだ。われわれの心理学はあまりにも自由意志という概念に依存しているので、それを捨て去ることなどできないのだ。われわれは、その信念が誤りだと分かっているにもかかわらず、自由意志という信念を保持せざるをえない。

自著でこう述べているミンスキーです。彼のフレーム理論によって「心」ができているのなら、そこには倫理も信仰もいかなる規制も必要はなくなります。「心」が「マシン」なら、要は「調整」のみがあったら良いことになる。しかし、ここで彼は「自由意志」というエージェント発のシステム「外」からの規制の存在の否定を保留しています。それは、あるとした方が良いのだろうと。

これを「マン−マシン」論に徹しきれないミンスキーの日和だろうと見るのは簡単です。しかし、そうではない。「それで閉じることができない人間の実際」を彼は無きものと嘘がつけない。おそらくはそうです。

もしかしたら、ミンスキーとリアリーは結構共通点があるのかもしれない。両方共に自分の理論に責任を持ち、自分を賭けて、妙な妥協はしない。それぞれが主体的に世界と関わろうと努めている。

リアリーは個人的にはミンスキーのことを大好きだと言っていた。私にもその気持ちは幾分わかるような気がする。

西垣が見た通り、そういうことでしょう。「天の理」を求めるリアリーと「人の理」を解こうとするミンスキーは相容れない。相容れてはいけないのです(それは単なる妥協です)。しかし、それぞれのステージで本気であるお互いはわかる。

「認める」ということの本質がなんなのか。この二人の巨頭の交錯が示すものは大変重要なことであると言えるでしょう。

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踏み出した巨人たち

さて、こういったことを何とか繋げようとした一連の試みが、前世紀'60〜'80にかけて猛威を振るった「ニュー(エイジ)サイエンス」です。リアリーは「そちら側」の大物ですね。他には「より科学者側」から出てきた、例えばライアル・ワトソンなどがかなり大きな仕事をしました。先にあげたラヴロックやシェルドレイクの論を援用しつつ、天地人にまたがる包括的な思想は展開できないものかと頑張った。

これらは今では「疑似科学」の名の下に嘲笑の対象くらいですが、笑ってる人たちを見るとその人たちがワトソンたちが示した真剣さを今示しているのかといったらまるでそうは見えません。

勿論今の時代に彼らの取り組んだ超能力であるとか「スーパーネイチュア」であるとかに今一度真剣に取り組むべきだとはあたしも思いませんが、それぞれのステージに閉じこもって重箱の隅をつつき合うだけの様なことを繰り返しているのでは、かつての巨人たちの足下にも及ばないでしょう。

踏み出すものは笑われるし危険も多いでしょうが、踏み出さずに笑ってるだけよりいくらもましです。その価値を認めるか否かは、そこに語られることの表面的な内容で決まるのではない。それは上のミンスキーとリアリーに見たように、最後にはそこに賭ける本気を認めるか否かがモノを言うのです。

松岡氏も言う様に(ていうか彼がワトソンを日本に紹介したわけですが)

「われわれの経験のなかで最も美しいものは神秘的なものである」と言ったのはアルバート・アインシュタインだった。
ライアル・ワトソンはその言葉を信じるかのようにして、この本を書き、そしてこの手の本としては希有な世界的なベストセラーとなった。かなり勇気のいる仕事だったろう。なぜならワトソンはデズモンド・モリスの弟子でもあった正真正銘の動物学者であり、生物学の博士でもあったからである。それが科学と神秘の間に挑戦したわけなのだ。

こうして「人の理・地の理」の側から「天の理」の方へ(取り込もうとか浸食しようとかでなしに)踏み出した人たちはいたのです。ならば逆の側からだって踏み出してゆけるでしょう。

もちろん急速なドライブは危ないですから、まずは平衡感覚を取り戻して。

そして、なお沁さんが閉じることに恐れを感じ、踏み出そうという気概を持つなら、早々に話にけりを付ける必要も切り上げる必要もありません。ま、こんな程度のことしか書けませんが、あたしの提供するものに「使いがい」があるのでしたら存分にお使い下さい。場違いだろうがなんだろうがあたしが良いと言うなら良いのです(笑)。ここはあたしのサイトですから。

あ、そうだ。

>「示せる可能性」というのも……というのもなんだ?というかそんなもん示せるのですか?

あたりはちょっと注意が必要でしょうか。
「人の理」の中にあっては、それを示すのは可能です。そのステージが「脳−記号化−言語」によって人の世界は規定されている、という認識を示すものであることはこれまでにも何度か述べましたが、その中では、何だって「答えが出せる」のです。

言葉の網の目の内部だけなら、言葉が表現できる概念の一切は誰かに信じさせることが可能です。相手の中にその表現を受容させる受容体を構築してしまえば、それはその人にとっての「答え」になってしまいます。この「相手」は個人に止まらず一つの文化圏丸ごとが対象になるケースだってあります(ていうか今の世界とはそういう世界です)。

宗教とは心の弱いものをすがらせて、その思考を停止させる愚かしい装置である、という「答え」が日本という一つの文化圏に大きな受容体を形成してしまった一例を沁さんはいやというほど見ているはずです。

このことを見抜いたのはそれを「言語ゲーム」であると喝破したヴィトゲンシュタインでした。だから彼は晩年「倫理」を研究したのです。

イエスの言った「偽預言者」とはこれでしょう。あり得ない、と思っていたら目の前で「あり得る様に見えた時」がキケンです。そんな時も「それは人の理の中の話でしょう?」と「天・地・人」でひとまず緩衝してみるテクニックは役に立つでしょう。中国四千年の秘伝ですね(笑)。

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