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2009.01.10 サキムラさん

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沙木夢羅の日記帳

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HUNTER's MAIL vol.1

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[ 名前 ] サキムラ
[ Link ] 沙木夢羅の日記帳
[ 件名 ] 平面図形が解けないよう
[ 本文 ]
サキムラです。
件名は別に教えてくれという意味で書いたわけではないので、安心してください(苦笑)

さて、某数学が難しい県の高校入試の問題をといて頑張っているのですが、僕は文系なので理解しにくい部分が多い。
別に数学が嫌いではないんですよ。ただ、数学って他の教科と比べるとストイックじゃないですか?それを入試に入れるの間違ってる気がするんですよね……まして難しい問題を。(ま、簡単な問題は半分ほど出るんですが)
他にも腹立たしいことはいろいろあるのですが、ここに書いてもしょうがないのでやめときます。

ま、愚痴こぼしたりしてますが真面目に受験勉強もしてるので心配は無用です。(実は来週最後の定期テストがあったり)
ま、数学が中心になってしまうんですけどね。一番苦手で一番難しいし。

……そういえばLOGさんは成績とかどうだったんですか?差し支えなければ教えてください。
(心理学とか詳しいので頭いいイメージが僕にはあったりします。)

それでは、雑談、いや無駄口でした。

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ユークリッドの『原論』

HUNTER's LOG

サキムラさんこんにちはー。
あたしの「数学」に対するイメージは以下に述べます。参考になるかならぬかは…ならないかもですが(笑)。

あたし成績は、ま、良かったですよ()。でも以下をお読みになると大体お分かりかと思いますが、成績なんかどうでも良かった人です。百歩譲ってテストの足しにはまったくならない人間ではあるでしょう(TT)。だから「HUNTER's LOGがこうゆったー」ということを回りに言うと怒られるでしょう。あたしは怒られたくありませんので、その辺りは上手いことやりましょう(笑)。

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普遍言語への欲望とアルゴリズム

20世紀最大の発明とか、人類史上最大の発見とかいう言い回しがままありますが、今時の子にこれを聞くと大概「インターネットだろjk」と返ってきます。んが、もうちっと「訳知りな」人々に聞くならばここで「アルゴリズムじゃね?」と返ってくるでしょう。「アルゴリズム」…あまり聞き慣れない言葉かもしれませんが、やはりそれは1番かどうかはともかくここ数十年、そして向こう数十年に決定的な支配力を持つ概念ではあります。

アルゴリズムとは「式」のことです。

数学の解への手続き次第は一般に「式」と言われますね。数式です。
が、この「式」という言葉は入学式や卒業式、形式や様式などとも使われる。中世に遡れば陰陽道の術者が使役する鬼神を式神と言い、それを発動することを式を打つ、と言う。また単純に術式などとも言います。

「式」とはなんでしょう。

これは状況Aを状況Bに意図して移行させるための手続きの段階を言います。現状(状況A)に、一定の有限なステップを踏ませることにより、望む状況(状況B)を出現させる。

学生未満(状況A)を学生にする(状況B)ための一連の手続き次第が入学「式」であり、とある創作欲求(状況A)を一定の文化カテゴリー(状況B)に収める次第が様「式」であり、とある人物(状況A)をとある状態(状況B)へ操作する(呪殺するなど)ことを「式」を打つ、と言うわけです。

だから数学で条件から証明を得る次第もまた「式」と言うのです。

一般の生活では、望む状況を得る過程を式次第として把握するということはあまりない。「誰かがそうやった」、そういった経験則(ノウハウ)を模倣することで自分も目的を果たそうとする。が、世の中には賢い人というのがいるので(笑)、その過程(式)だけを取り出して精錬していったら色々な解決がスムーズにいくんじゃね?と取り組み出すわけです。明日のごはんをどうするかといったものから国家の舵取りまで、現状と目的を繋ぐ最短のステップ、その「方法そのもの」を精錬させる。

西洋では古くはアリストテレスがリュケイオンでやったことがこれでした。そしてこれは途中の式に「代数」といったワイルドカード(何でも入る入れ物…としての記号)を使えばもっと「なんでもあり」になんじゃね?という半ば悪魔的な天才の発露により(ライプニッツです)、「機械的な演算」が可能な地点の一歩前まで来てしまう。

そして実際その機械はチューリングやノイマンを経て発明されました。デジタルコンピュータです。我々は今「アルゴリズムの怪物」とでもいうべき機械を前に日々過ごしています。さらにこの怪物はその「形式演算」のはらむもうひとつの欲望とも根深く繋がっていることにより、アルゴリズムが向こう数十年支配的である状況を決定づけました。普遍言語への欲望です。

サキムラさんはWindowsを使ってますかね。あたしはMacOSを使ってますが、これはどちらもアメリカで作られたプログラムです。日本語版のWindowsやMacOSではありますが、これはその日本語版を日本で作っているわけではない。最終的な表示部分が日本語に置き換えられているだけです。では、もとのWindowsが英語でできているのかといったらそうではない。アメリカ本家のWindowsもまた、最終的な(末端の)表示を英語にしている、というだけのことです。

コンピュータの中身は世界中どこでもコンピュータの言葉で書かれているからです。マシン語というのは英語でもラテン語でもなく010010101001…といったゼロとイチ(マイナスとプラス)の羅列です。これは地球上のほぼすべてのコンピュータがそうです。これを二進法と言います。普段我々が用いているのは十進法ですが…詳しくなるとえらいことになるので端折りますが…あらゆるn進法上における計算はすべて二進法に落として演算できる、ということを証明した人がいました(ブーリアン)。

だから、コンピュータはこの世のあらゆる演算を行うことができます。それが形式に置き換えられ、その組み合わせで解が表されるなら、言語表現であれ、絵画表現であれ、音声表現であれ演算することができるのです。

さて、これは途方もない事態です。有史以来人類は、あるひとつの事柄に悩まされてきました。ローカルルールの違いです。ここでは単に言語としましょう。旧約聖書のバベルの塔の逸話に見られる様に人類の問題、いざこざというのは使う言葉が違うから、こちらの考えていることが言語の違いによって相手に正確に伝わらないからという思いがありました。だから、ある意志をその意味内容を損なうことなく相手に伝えることのできる「普遍な言語」があったらその問題は解消できるんだ、と(主に西洋の人は)考えつづけてきたのです。

実際エスペラントの様な「世界語」を作ったりする人たちもいましたが、現在最終的に世界中で同様に有効な記号の体系はひとつだけです。数字です。そして、その数字をどのようにも演算してのけられる機械がコンピュータです。ここにおいて、コンピュータの中で演算できる形式は「普遍言語になりうる」というスタンスが生まれます。何語で成された何であれ、コンピュータ内で演算できるならそれは地球の裏側でも有効に再現できる。

こうして「アルゴリズム」はコンピュータと結びついて一切の文化的活動の根幹を律するポジションに浮上しました。数学の解へのステップであれ、文章の組み立てであれ、組織の作り方であれ、「現状と目的」が示されるのならば、それは「アルゴリズム」で繋がる。それが十分形式的に演算できるなら(コンピュータが演算できるなら)、その方法は地球上どこでも再現できる。そのオールマイティーな普遍性を提供する思考法こそ「数学」に他なりません。

つまり、数学というのは「機械ですら」扱える、というものなんです。そのくらい問答無用に「ゆらぎ」をなくした学問が数学です。だから誰かが解いた数式は他の誰かも「絶対に」解けます。そうでなければ数学ではないのです。

これは得意不得意とか計算力がどうこうといったことじゃないですよ?考え方の問題、というか視点の置き方の問題なんです。解ける/解けないが重要なのではなくて、「誰でも同じ様に解ける式次第がそこにある」ということを取り出してきたのが数学だ、という視点が重要なのです。あるいは物事の進め方として、そのように誰とでも共有可能な式次第(アルゴリズム)を取り出してくることができる、という視点を数学が示していることが重要なのです。

確かに今学校で勉強されている「式」次第なんかまず間違いなく将来使うことはありません(笑)。円の半径の中点からその直径に直交するもう一方の頂点へ引いた線がその円に内接する正五角形の一辺と同じ長さであるなんか「だからどうした」以外の何ものでもない。しかし、その証明の手続きを踏んでいくステップというアルゴリズム、それを組み立てていく「頭の使い方」というのは、今世紀中は間違いなく有効かつ最強でしょう。

向こう数十年。少なくともノイマン型コンピュータが世界を覆い、あらゆる分野の学問、仕事がその上でなされていく以上は「アルゴリスティック」に問題への解法を組み立てていくセンスは最強の武器でありつづけます(理系であろうが文系であろうが、デザイナであろうがミュージシャンであろうが)。

でも、それを嘆くというのも見当はずれなんですよ。形式演算なんざ所詮記号化された世界しか扱えないじゃんか、という感覚は確かに大事です。しかし、では数学を築いてきた人たちがそのような無味乾燥な人たちであったのかといったら大間違いです。

彼らは全然ストイックなんかじゃありませんでした。彼らが形式演算の果てにたどり着こうとしたもの。それはとてもとてもロマンティックなものだったのです。だって彼らはそれによって「神様の袂」に触れたかったのですから。

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ストイック/エロティック
(ユークリッドとニュートン)

エロティックなんて言うと「エロっすかぁ?」とオヤヂどもが色めき立ちそうですが、そうではありません(笑)。そうですね、例えば「HUNTER's LOGのモンスターハンターは大変エロティックである」という表現が成り立つ様な意味における「エロティック」です。これはあたしがエロ装備大好き…とかじゃなくてですね(笑)、「自分と切り離さない視点で対象を扱っている」という取り組み方を示しています。

十九世紀以来、何かに取り組みそれを優れて表明するためには観察者は自分の視線の影響を極力排して「ストイック」に、客観をもってそれを示さねばならない、という考え方が支配的でした。しかしあたしは「客観?なにそれ美味いの?知るかそんなもん。だって好きなんだもーん!」という姿勢を全面に立てて(笑)、これを表明しているわけです。こういった「自分の好みで何が悪い」という開き直りの姿勢を「エロティックな取り組み」と言ったりするのですね。

さて、ではここで「数学」を築いてきた人たちが果たして「ストイック」だったのかどうかという点を見ていきましょう。具体的に二人の人物、ユークリッドとニュートンを見ていきます。

ユークリッド

サキムラさんが現在挑戦中の平面図形の問題は「ユークリッド幾何学」と言われるものです。ユークリッド。今から2300年くらい前のギリシアの人です。「人」と言っても実際のその足跡はほとんど謎なので、個人であったか「ユークリッド学派」とでも言うべき集団であったのかも分からないのですが。彼の書いた「ストイケイア(幾何学原本『原論』)」がその平面図形の源でして、名前からしてストイックですね(笑)。あ、「ストイック」そのものは少し後のギリシアのゼノンにより成る「ストア学派」がその名の由来です。

この『原論』というのは幾何学であるというよりも(扱っているのはそうなのですが)、問題を証明する手順というのを確立してしまった点が恐ろしい書物です。「与えられた線分ABを……ゆえに……しかるに……」なんていうのがこの時代に出来上がっちゃてるのですね。

ま、それはともかく、ここでは彼の成したこと、その動機を少し変わった角度から見てみます。

まず、ユークリッド幾何学というのは「完全平面」上でなければ成り立ちません。つまり、リアル世界では厳密には役に立たない(笑)。簡単に球面上に三角形を書いてみたら分かりますが、球面上の三角形の内角の和は180°にはならないですね。アインシュタイン以降この世の存在とは空間のゆがみに他成りませんから、ユークリッドの幾何学はこの世では成立しないのです(無論日常レベルの近似値はズバズバ出せますが)。

実はそのあたり彼らも薄々感づいていた節もあります。ていうか、完全平面上でも自分たちの希望が叶わない可能性を知っていた。彼らの希望とは完全平面上の図形の関係は「きれいに割り切れる」ことでした。直角三角形の二辺の自乗の和が斜辺の自乗と一致する。おーまいがっ!なんて上手いことできてんだこの世界は!っと、彼らはたまげて、そういった「秘密」を解明しつづけていったわけですが、早くも直角二等辺三角形といった「きれいな」図形においてその斜辺が「きれいな数字で出てくれない」ことに気づいていた(1:1:√2になりますね)。

でね、このことは極秘とされた。どのくらい極秘だったかというとこの「割り切れない斜辺」のことを外に持ち出そうとした人間を暗殺しちゃったくらいです。

何だそりゃ、という感じですね。なんでそこで人死にが出にゃならんのか。

ここで心に留めておくべきなのはユークリッドの師匠、プラトンのことです。プラトンは「この世」というのはより高次元に完成している世界(イデア)の「影」なんだと考えた。そして、純粋な理性的思考のみがそのイデアを認識できるのだと考えました。人はそのイデアを認識することでこの世を形成した神の意思に触れることができる。それがギリシア以降の西洋の思考の底流を流れ続ける基盤です。

つまり、ユークリッドやギリシアの思想家達における数学とは、完全平面(イデアの模型)上では物事は「完全に」成ってるはずだ、という夢想だったのです。なんであんなに色々な「どうでも良い」図形の関係性を証明していったのか。それは神の設計図の完全さを証明したいという欲求だったのです。もしそこにほころびがあったら、そのほころびとは「神のほころび」に他ならない。だから、その秘密を漏らそうとするものを殺害してまで神の完全性を守ろうとした。

どうでしょう。サキムラさんが今やっているその問題とは、2300年前に「神の意志に触れようとした」人たちの記憶なんです。あたしにはそれが大変「エロティック」に見えます。そしてこれは人ごとではありません。イデアを希求する欲望は現在でも流れつづけています。普遍言語への欲望がそれです。コンピュータがそれです。

では、次にその二つの時代を繋ぐもう一人の「夢想家」を見てみましょう。アイザック・ニュートンです。

ニュートン

ニュートンというとニュートン力学なんていって出てきますんで物理学者みたいですが、彼は数学者です。

早くも弱冠20代で「微分法」を見つけてしまった。微分というのはぶっちゃければ次元を一個落とす計算のことです。2次曲線というのはやったですかね。これは2軸(XY)平面(2次元)上に描かれるものですね。これの任意の線上の一点には接線が引けます。で、この接線を無限に引くと、この2次曲線は直線(1次元)の無限集合として表現することができることが分かります。要するにこれが微分です。

これに遡る数年前、彼はユークリッドの『原論』に触れました。勿論当時の学生なら皆触れるのですが、はじめニュートンは「何だこの簡単なのは」とあっさり見限ってしまったそうです。が、師から「もっとちゃんと読め」と言われてもう一度取り組んで「ハマリ」ます。

多分ここで彼は上に書いたユークリッドの深層を見抜いたのだと思われます。それは単なる「図形の証明」ではなく、「イデア」を見える様にする取り組みなんだと気がついた。

なぜならニュートンもそれを目指していたからです。彼は学者になりたいんじゃなかったのです。ニュートンは「魔法使いになりたかった人」です。

プラトンにより示されたイデアの思想はその後、キリスト教が広まるに連れ、ヨーロッパからは閉め出されます。一旦イスラムの方へ伝わった。イスラムかよ、とお思いかもですが、当時のイスラム世界といったら世界でも最先端の文化レベルの人々です。今我々の使っている「数字」もアラビア数字ですね。

で、この「プラトニズム」はヨーロッパが中世から脱しようとするルネサンスの時代にイスラムから逆輸入される。ルネサンスというのはこの新生プラトニズム(新プラトン主義)の発生の場でもありました。それは次第に魔術化し、カバラや錬金術の思想と集合しつつ秘教化します。

ニュートンはその術者になりたかったのです。すでに彼がそういった教団の一員だったことが分かってますし(重鎮だったかもしれません)、彼の残した研究の多くが「数学」ではなく「魔術」だったことも分かっています。

彼は『原論』によって、イデアへ近づくアプローチを学んだ。そしてニュートンにとってのそれが「微分法」だったのです。微分法とは、そう、高次元を引き下ろして来る数式です。そして彼はその手法をもってこの世の運動がイデアの影であることを証明しようとした。その集大成がニュートンにとっての『原論』、『プリンキピア(諸原理)』だったのです。

やがてニュートンは自分の学説の場からどんどん身を引いて閉じこもっていきます。今風にいったらヒキオタになった。彼にとって自説の学際的な立場なんかどうでもよろしかった。彼は彼の神を見つけたのです。

ニュートンといったらその後の「客観的な観察」の元祖の様に言われ、ニュートン主義といったらそういった「冷たい」アプローチを指します。でも、あたしにはニュートンは全然そういった人には見えない。彼もまた、大変エロティックな人であった様に見えます。

経済学者のケインズはニュートンをこう評しました。

「ニュートンは理性の時代の最初の人ではなく、むしろ魔法使いの時代の最後の人である…(中略)…(彼は)実際に目に見える世界と、目には見えないなぞの世界とを、昔の人と同じ様な驚きの目で眺めたところの、最後の偉大な人物であった」

あたしもこれにはまったく同意です。

さて、ユークリッドとニュートンといった二人の「アツい漢」の様子を通してみて、ちょっとは数学が違って見えますでしょうか。少なくともあたしにとって数学とはそういうものです。先に述べたアルゴリズムの奥底にあるのもそういった「暑苦しさ」です。

おそらく人類はアルゴリズムと普遍言語マシン(コンピュータ)によっても「約束の地」へは行けないでしょう。でも、あたしはそういったドンキホーテ的な突進はきらいじゃありません。いま、どの学問が一番無茶に暑苦しいかといったら数学であり、その表現系としてのコンピュータだと思いますよ。そこには大変「人間臭い」数学があると思います。

長々と述べてきましたが、要約すると数学とは時としてとても「文系」です。少なくともそういった視線で捉えることのできる「数学」もある。最後にそういった魅力を持つ楽しい作品を紹介して、あまり役に立ちそうもないあたしの議論を補っておきましょう。

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『すべてがFになる』
著:森 博嗣 講談社文庫・ノベルズ

一頃ミステリ小説を内側から解体してしまった人物として同時期の二人の小説家の名前が良く出ました。東の京極、西の森。の森さんです。最近は「スカイ・クロラ」の原作者として有名でしょうか。
このかたは「理系の人々」を魅力的に書くことに関しては横綱ですね。特にこの『すべてがFになる』から始まるデビューシリーズはそうです。

この小説の発表は衝撃的でした。今、講談社に「メフィスト賞」というのがありますが、この賞は森さんのデビュー(この『すべてがFになる』です)のために作られた賞だ、と言われるほどです。

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『臨機応答・変問自在』
著:森 博嗣 集英社新書

2巻まであります。森さんはこの当時某国立大学の工学科の助教授でもあったので、その講義の際に行われていた学生との質疑応答をまとめたのがこれです。
思わず「ニヤリ」としたくなる回答がいっぱいです(笑)。理系的な発想、というのが時として文学者以上に文学だったりするのが分かるでしょう。

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