2009.09.01 サキムラさん
[ お名前 ] サキムラ
[ Link ] 沙木夢羅の日記帳
[ タイトル ] なんか英語の話
[ お便り ]
どうも、最近日本の教育に騙されることが増えた気がする、サキムラです。
気がするで済めばいいんですがね。
先日とある本を読んだわけなんです。
ドラゴン桜公式副読本、16歳の教科書。
ここの英語ページに気付かされた。うん。
正直ね、分厚い英語文法書は必要だと、重要だと思い込まされてしまったということが大きい。
言葉が難しいし、詳しく書いてあって参考書っぽいんですが、「英語は数学じゃねぇ」ということですね。全部を理論で解決するわけにはいかないんでしょう。古文のように。
正直、学校の教材よりもこういう新書や一般書のほうが参考になる部分は非常に大きいですね。
教育には直接関係なくとも、99,9%は仮説(光文社新書)や数学的思考法(講談社現代新書)のほうが僕の勉強に対して意欲的になれた気がします。
……まぁまとめが書けないんですが(苦笑
以前の記事は感情的になって書きましたが、冷静になってみると少し希望が見える気がしますね。
なんか人生を自由に生きられる気がしますよ。心から。
もう高校なんかに振り回されませんよ。
他人の意見を尊重しつつ、自分の考えを整理する。それで、自分の結論を決める。
そんな人間でありたいなと思うこのごろ。
……なんか変な話でごめんなさいね。
HUNTER's LOG
サキムラさんこんにちはー。
ちょっとお返事遅くなっちゃってごめんなさいー。
あー、これは大西さんか。NHKブックスの「英文法をこわす」は、いつだったかな。丁度あたしがブッシュ政権の全体にタイヘン興味を持って国際政治的な問題に浸かっていた時読んだので、印象深い一冊ですね(もう5年以上前ですね、英語ニュースサイトとか読むのが大変で英語の上達の資料を漁っていたのです)。
人の生み出した文化の体系というのは、実はそのほとんどが「たまたまそうなった」というものです。それは「いい加減」ということではなくて、物事の「できあがり方」というのがそもそも「設計図→出来上がり」と言うものではないということなんですね。
まず種子が有り、それが変化したものどうしの関係が次の在り方を生み、そして生まれたものどうしがまた関係して………というのを「自己生成システム」と言いますが、これは焦点を当てた際の構造の直前に揃っている要素の関係で生まれてくるシステムですので、簡単に「大本」に還元されませんし、そうなることを指示した「設計」があるわけでもない。
例えば都市の発展というのが目に見える端的な一例ですが、平安京をベーストする京都と江戸をベースとする東京を比べると分かりやすい。
京都が「設計図」による碁盤の目のシステマティックな様相を持つのに対して、東京は非常にカオティックです。その時代その時代の要素の関係が次を生み出す、という自己生成的な広がり方をしてきて今に至ります(実はそのベースには碁盤とは違う螺旋の都市計画があったのだ、という研究も有りますが)。
言語なんてのはその「自己生成システム」の最たるものでして、もとより設計図等あるわけもない。数年でミクロな変化が生じて「変わっていくもの」であることは今を生きていると良く分かります。
ですので、前に古文に関して
法則に基づいて古典が書かれたわけじゃないのです。「〜である場合が多い」と解説されることが多いのがお分かりでしょうが、古典の文法なんて要するに「そういった傾向が多い」ということなんです。
と書きましたが、ありゃ英語も同じという意味で書いてます(ですんで英語に関してはおまけだったのですね)。方法論に関しても同様で、「文法」の前に一定量の実際に「読み書きした」経験がないと、頓珍漢なことになってしまう。法則ありきじゃなくて実例ありきなんですよ、自己生成システムというのは(大西さん的に言ったら「イメージ」)。
で、その「実例」を蓄積していくための最も重要なスタートは、そもそもの「動機」なんですよね。英語を身につける必要(その魅力)を先に手にするのが手っ取り早い。で、シェイクスピアとかどうよ、とお薦めしたのでした。
ま、そういった「動機」を与えることを半ば放棄している学校教育のカリキュラムなんで頭に来ることもあるでしょうね。サキムラさんは「ちょっと書きすぎたかな」とこの前の記事(「ああ、惨い社会だ」)を思っているのかもですが、直観的にはあってます。少し難しいかもですが、こちらを良くお読みになると「そういうことか」と思う所があるでしょう。
では、国家や社会は(そして金融機関やマスコミは)、コミュニティではない何を奨励するかといえば、成長しつづける企業を応援し、やたらにペグ・コミュニテなどに手を出さない学生を育てる学校を作らせ、めんどうな社会問題に関心などもたないでしっかり貯蓄を投資にまわす庶民になるように旗をふる(それが郵政民営化だった)。これが今日の日本の姿なのである。
ようするに本気の“修練”や“再生”などはしてほしくない。すべてを“保険”がまぶしてしまうようなコミュニティや祭祀なら、それなら規則を付したうえで許すぜよということなのだ。これはむろん日本だけにおこっていることではない。すべての自由資本主義諸国でおこっている。
松岡正剛『千夜千冊』−"ジグムント・バウマン『コミュニティ』"より引用
近代国家の運営には少なからずそういった側面がある、というよりそうやってできちゃったものなので、それがいやなら違う国家の在り方を作るしか無い、と極論まで割と直結しがちな問題なんですね。
が、それはそれとして「自分」のことは無論もっと自由勝手にできます。「文法」だって時と場合によってはたった一つの「手がかりになる」時もあるのです。
文法の本質
文法というのは外国語を勉強するために生まれた学問ではありませんで、言語そのものを理解するための「言語学」の中に生まれたものです。その詳細は類書にあたっていただくとして、ここではその考えが「見つけた」ものの一例を挙げておきましょう。
「ドラゴン」の中でアーリア民族という人たちについて少し言及しました。
おおよそ紀元前16世紀以前に中央アジア付近に「いたであろう」とされる人々のことです。
この「アーリア民族」というのは文書的な「記録」や、考古的な「遺物」からその存在が予想されたわけではないのです。そこで書いた様に、
アーリア民族というのは未だにその実態が良く分からないんですが、そもそもそういった人たちがいた、と言う伝承があったり遺跡があったりで、その民族が想定されているのではないのですよ。ケルト(イギリス)・ゲルマン(西欧)・ギリシア・ラテン・スラブ(東欧)・ペルシア(イラン)・サンスクリッド(インド)の言語が同一の構造を持つことから(これをインド・ヨーロッパ語という)、その母体になった原印欧語とそれを用いた民族がいただろう、という言語学上の想定から類推される人々なんですね。
アーリア民族の移動
ということなんですが、この「予測」の根拠になったのが「文法」なんです。上にあげたイギリスからインドにまたがる各文化に見える言語が、共通の文法を持っていた。ならば、その根っこには派生以前の源流となる言語があり(原印欧語)、ということはその言語を使っていた民族(これがアーリア民族)がいたんだろう、ということなのです。もちろん文法だけでなく、実際の各単語の比較等も重要でしたが。
ここで見逃してはいけないのは、要は文法とは単一の言語の取得に置いて重要なのではなく、その言語の持つ構造(の傾向)を把握し、「お隣」の言語と比べる時に力を発揮するものなのだ、ということです。
英語を習い覚えたら、フランス語はとりあえず「似た文法を持つ」という所からスタートできる(ドイツ語なんかさらに「似たようなもの」です)。日本人の場合、「英語の次の印欧語」を志した際にあの「S+V」とか「S+V+O+C」は実際役に立ってきます。
ていうか現在をそれを痛感してるのがあたし(笑)。
自分の学問
今ね、例の「龍学」の下準備を微速前進でやってるのですが、まずは本邦の竜蛇だろうということで、記紀や風土記を読んどるのですが(古典だ……笑)、その後のための下準備の下準備として外国の原典もある程度読める様にならにゃならん、で、まずは古典ギリシア語だろうと(ギリシア神話・聖書)。
んが。古典ギリシア語の教科書なんざありゃしねえ(笑)。無くはないのですが、選択肢といったら片手の指の範囲の小冊子です。そこには当然の様にまず「文法」が解説されている。しかし、「Αθηνη」「Ἔχιδνα」「Κάδμος」「Ὕδρα」とかね、ギリシア語なんかもういきなり読めない(笑)。ですので、むしろ「文法」の方が「分かる」わけですよ。英語と同系の印欧語ですから。
今のあたしにはそれが唯一の「手がかり」となっている、ということです。
いずれ日本語の教科書は割と絶望的ですから、「古典ギリシア語−英語」の英訳書をベースに読んでいくことになるでしょうが、ここでも文法的な「単語の並び」から読んでいくことができるでしょうね。
ま、良いオヤジも奮戦中ということですが、結局はそういった「自分の学問」がスタートしないと何をどうやっても勉強なんかは本質的にはならないということでしょう。逆に、そこがスタートするなら、何だって「手がかり」になる、ということでもあります。
今サキムラさんが新書とかで目から鱗が流れてるのは、そういった「自分の」を求めたいという状態がそうさせるのでしょう。実際そこまでも行かない方も多いのですので(笑)、大いにあれこれ読んで切り開ける所をドンドン切り開いていってください。あれですよ?マジで「本読み」になったら新書とか日に一冊くらい読んじゃう様になるのですよ(笑)。
そうやっていずれ「自分の」が見つかった時は、しかし意外とつまんなかった詰め込みが役に立ったりもするものです。これはどうしても「詰め込み」可能な時期(若くて頭が柔らかい時期)と「自分の」が見つかる時期にズレがあるので、ある程度は達観して取り組んでおくのが良いと思います。