ドラゴン:中国
雑記帳:た行
龍とは王である。
あるいは、王とは龍である。
ここへ端的に納まったのが中国の龍です。
まず大まかに時間軸を追うならば、中国の龍はおおよそ今から七・八千年前の遺物にはすでにその姿を現し、殷の時代に発達する甲骨文にその形状は霊獣として記され(BC15C)、続く青銅器の時代には現在の「中国龍」の形状が出来上がってしまい、諸子百家から漢に至る広域の編纂事業の中で神話の整備とともに皇帝の由来となって、その外見・性質なども確定され、漢代の仏教伝来とともにインドの蛇神のイメージも加わり…至る現在、という感じになります。
世界的に見てもこれだけ早い段階で龍のイメージが確定し、後にまでそれが受け継がれたというケースは珍しいですね。その発生から現代までが切れ目ないというのは(新石器時代が現代まで続いていた文化圏などを除けば)中国だけかもしれません。
では、まずその貴重な「発生の現場」を見るところからスタートしましょう。
査海遺跡で出土した石積みの龍
最も古い竜の造形は黄河の北側から黄河下流域に見られまして、小石を敷き詰めてその姿を作っている。これがなんと今から七・八千年前というのですから驚きです。似た発想としては仰韶文化圏のBC4000caという墓の埋葬に、死者の左右に貝殻を敷き詰めて竜と虎の形にしているものがある(『図説中国文明史1』)。
西水坡遺跡で発見された埋葬
実は「龍虎」というのは古代中国の星座で一年の対極に位置するので、対峙させられるのですが(さそり座付近:龍/オリオン座付近:虎)、これが確固として星座として記されるのはBC5C。上の墓の埋葬が竜と虎なら……それを軽く4千年遡ることになります(『龍の話』)。
下って漢代には「春分に天に昇り、秋分に淵に潜む」と表現される事になる龍ですが、これはつまりこの「龍座」の事です。北斗なんかと並んでその位置で一年のサイクルを知るのに重要な星座だったのですね。
このBC4000〜BC6000という時代は黄河流域に粟作・長江流域に稲作の農耕が発生していまして(最も古い陸稲栽培の痕跡は1万年以上前になる)、かなりの地域に広まっていた時代です。すでに人々が星のサイクルなどから季節を確実に捉え、また、その気候の安定を神格化した龍や虎に託している様子がうかがえます。
西水坡遺跡の埋葬には、竜・虎に加え鹿らしきものを象ったものもあるのですが、この三獣は後の神仙思想をまとめた『抱朴子』によれば「三蹺入地」といい、天地を巡る術だとされます。「三蹺」というのは龍・虎・鹿盧に乗って空を飛ぶ術なんだそうです。この原型となる原始道教の様なシャーマンだったんでしょうね(『図説中国文明史1』)。
この仰韶文化(BC5000〜BC3000)を受け継ぐ彩陶文化からの出土品には人面にも見える不思議な頭部を持つ蛇の様な魚の様な生き物を描いたものがあります。竜だワニだサンショウウオだとあれこれ言われている様ですが、注目したいのは頭部の「十」字形の模様。このような例がいくつかあるのですが、これは特別な獣に記される標識であると見る向きもある(『龍の話』)。もしそうであるならば、下に行って出てくる殷時代の甲骨文に見られる頭部を辛字で冠飾した霊獣の原型であるかもしれません。さらにこの頭部が「人面」を表現しているのだとすると、神話に見られる人面龍神の神々の源流であるともいえます。
また、この時期の「竜」の造形にはこの仰韶文化のものとはまた趣の異なる玉器の造形もあります。紅山文化と称するこの文化は渤海の北、今の内モンゴル自治区の東寄りに栄えたもので、時代はBC4000〜BC3000あたり。仰韶文化と時期的にも被りますし、位置的にも隣なので、かなり影響は受けていた様です。が、こちらでは玉の加工が発達し、また祭祀レベルもかなり大規模な廟を構築しています。この点いち早く氏族集団を抜け、都市国家的なものへ突入していたかもしれないともされますね。
紅山文化の豚龍環
そんな紅山文化で作られていたのが竜の玉環。スマートなのとデブいのがあるみたいです。どちらも頭部が豚鼻系をしているので「豚龍環」と言います。中国といったらブタさん大好きですが、この当時からすでに飼育・繁殖を大変工夫してまして、ブタの頭部を象った土器とか、その姿を描いた陶器とかがたくさんあります。もっともまだ今ほどブタ化しておりませんで(豚は猪の人工飼育のもとで豚になった)、イノブタという感じですが(『図説中国文明史1』)。
中国の新石器時代の竜とはこんな感じでした。仰韶文化の埋葬はシャーマンと言ったらもうその部族長に近い人物だったでしょうし、紅山文化の豚龍玉も相当身分の高い人物(と思われる規模の墓)の副葬品となっています。後で詳しく出てきますが、同時期南の長江流域では後の青銅器の饕餮紋に連なる獣面ミッシリ地紋をあしらった玉器がたくさん作られていた(『神と獣の紋様学』)。
南では饕餮紋へ連なる玉器が
黄河と長江。どちらの農耕発生地も、その狩猟から定住への生活様式の大きな変化にあわせて「怪物」の像を一生懸命作りはじめた、ということです。
やがてそれは広域を治める国家が誕生することで合流し、歴史時代の開幕を告げていくことになります。
甲骨文字
甲骨文字とはBC15C頃、殷文化においてに発生したと思われる象形文字の一群。それが今現在われわれの使ってる漢字まで繋がってるというのだから恐れ入っときましょう。
これは骨や甲羅などを焼いて(火にくべて)、そこにできるひび割れのパタンを記号化、この形を分類してその意を探る、という「占い」としてスタートしました。占いを「卜占(ぼくせん)」と言いますが、このうち「卜」がこれにあたります(筮竹を使う系統を「占」という)。
甲骨文字(これは亀の甲羅)
ここで面白いお話をひとつ。
この「甲骨文字」というのは古くは漢代、最初の字典「説文解字」を編纂した許慎も知っていたらしいですが、本格的に考古学の対象となったのは、ま、実質20世紀ですね。当時清朝の偉い学者さんだった王さんがマラリア対策で漢方薬の「龍骨」を常時服用していた。漢方薬の「龍骨(竜骨)」というのは土中から得られる化石などの骨を砕いたもので、今でもあります。
で、この王さんがその龍骨のでかい破片を何となく眺めているとなんか変な字が刻んである。びっくりしてその漢方薬屋の所持する龍骨を買い占め精査すると……あるはあるは。たまたまその薬屋に流通していた龍骨は古代遺跡のあったあたりから掘り出されたもので、これにてめでたく謎の古代文字「甲骨文字」発見に至ったのでしt……というのはどうも後から作られたお話の様ですが(笑)。実際のところはこの王さん(清朝国子監祭酒[国立大学総長]:王懿栄[おういえい])のもとへ古物商が持ち込んだ、ということみたいですね(『文字の発見が歴史をゆるがす』)。
なんちゃってエピソードでも(いや、有名は有名)文字の発見の契機に「龍骨」があったってのは楽しいので知っていても良いかしら、みたいな(笑)。
さて、本題。
「リュウ」の字は本来の字形は「竜」。「龍」の字は繁文。繁文というのは後世にわざと複雑に字形を組み、格調高くしたもの。殊に竜は下って皇帝と同等の立場になるので、それにあわせて「龍」の字が生まれた、のでしょうね。左の字形に関して特に指摘したものを見かけなかったのですが、これは「竜」の元字とは思えないですね。上で紅山文化に見た豚龍環そのものに見えますが、どうなんでしょう。
甲骨文にすでに頭に十字(干字)状の冠飾を持ちますがこれは「辛」。辛とは針。入墨に用いる針のこと。入墨は邪気の侵入を遮るものとされましたので、以降土地や呪物一般に「辛を刺す/埋め込む」ことにより安定させる・コントロール下に置くの意となり、また辛字を冠するものは安定して神意を表すものとされました。
四方の神性を表す「四神」に玄武・青龍・朱雀・白虎がいますが、このうち竜(青龍)・鳳(朱雀)・虎(白虎)の字は共に辛字に冠飾された字です。
この様に竜は蛇形の身体(下部)に辛字の冠飾という字形です。つまり、殷の時代、BC14C〜BC11Cにかけての時期に、すでに神格を持つ蛇形の竜の存在は明確に把握されていた、ということです。
また「雲」の字はもとは「云」と書き、これは雲に竜が突っ込んで尻尾が見えている形。世界的にも雷の稲妻を龍として見る伝承は多いですし、中国では「虹」を竜としている。「虹(こう)」という字そのものが"にじ"を竜とする、その竜の名前そのものです。"にじ"の外側に二重にかかる"にじ"を「げい(猊のへんが虫へん)」といい、虹と雌雄とされた(『中国古代の民俗』)。
中国の龍はその原初においては天候気象を示すコードとして捉えられていたと言えるでしょう。
例えば「雩(う)」という字の形も下部のところは竜を表します。端的に「雨乞い」をさす字ですね。先に述べた一年のサイクルを表す「龍座」から転じて、農耕に重要な降雨との関連が推し量られます(いずれも『字統』)。この文字は下っては「レイ(雨冠に龍、雨乞いを表す)」となりますが、これは「皇帝が(竜神に)雨乞いをする」字です。あるいは皇帝が降雨をコントロールできる龍の化身であることを表します。人の暮らしはまず第一に農作物がしっかり実らないことには始まらなかったですから、王の最大の責任とは天候の安定でした(『龍の起源』)。この字はその辺りの様子を良く伝える字です。
ところで、この時代(殷)には西方とのコンタクトがあった痕跡があります(出土したチャリオットの「車輪」の構造がメソポタミアのものと似る)。「ドラゴン:オリエント1」のメソポタミアの項にこの地のドラゴン・ムシュフシュを紹介しますが、メソポタミアの代表的な神々はこのムシュフシュを従えるとされ、あるいはムシュフシュに乗っているのだとされます。中国の皇帝も龍に乗っている図像が描かれていくことになりますが、もしかしたら古いドラゴンのイメージを持つメソポタミアの神話が流入していたのかもしれません。
ムシュフシュもティグリス・ユーフラテスの大河の化身を示す可能性がありますから、水を支配する王という点でも比較できますね。いずれにしてもこんな感じで中国の龍はまず第一に「雨・水」と深い関わりを持って立ち上がってきます。では、今度は神話に目を転じてその辺りを見ていってみましょう。
創世から王権への龍
伏羲・女媧・黄帝
統一帝国が形作られる時代、周から春秋戦国・秦・漢をつなぐ千年間で、各地で様々な形状で語られてきた龍たちは、一気に現在の龍のベースとなるイメージを持つことになります。それは皇帝の乗り物である。皇帝は龍(ロン)の化身である。春分に天に昇り、秋分に淵に潜む。雨をもたらす。地の気の流れである。等々、自然全般の象徴を一手に引き受け、これを統治する皇帝の根拠を示すポジションへ象徴されていきます。秦の始皇帝は「祖龍」である、あるいは前漢の高祖劉邦の出自に、母がその夢に龍を見て劉邦を身籠った、なんて伝説が形成されるわけです。
世界各地どこでも言えることですが、統一帝国が形成される裏には価値観の統一という事業がある。もともとそれぞれの地域で部族社会を営んできた人々は、その部族の範囲で神話を形成し、伝承していたわけです。ある部族は自分たちが田畑を耕す土地を見守るようにそびえる山を神様とし、またある部族は日々漁を行う海の底にいる(あるいは海の果てにいる)神様を想像してたくさんの魚をもたらしてくれる様祈り、感謝する。
が、広域を統治する帝国にとってはそれぞれがお互いの神様を見て「そんな神様は知らん」と言っていたのでは困るので、そういった土地の神の上にはもっとありがたいすげえ神様がいるんだよ、帝国の王はその一番偉い神様のお墨付きを持った人なんだよ、とする。それが統一帝国の誕生と軌を一にして編纂される神話です。
中国でもこの間にあれこれ工夫されながら、漢の時代の司馬遷のあたりにはほぼまとまった形になりました。
司馬遷の『史記』によれば人の王の歴史時代以前には「三皇五帝」という神様だか人だかといった感じの王たちが統治した期間があったとされます。もっともはっきり「三皇五帝」とまとまるのは唐代の補遺による様ですが。この三皇に位置する二人(二柱)が伏羲と女媧なんですね。後にいって色々出てきますんでちょっとまとめて書いておきましょうか。
三皇
・伏羲 → 女媧 → 神農
五帝
史記バージョン
・黄帝 → 顓頊 → 嚳 → 尭 → 舜
禹が入るバージョン(『三統経』など)
・嚳 → 尭 → 舜 → 禹 → 湯
といった感じ。中国には「神話」を示す言葉そのものが無く、現代になって「輸入」したくらいだそうで、まとまった「決定版」の神話というのが無いのですね。これは主に儒家がその思想に怪神を語らずというのを持つため、伝承を「歴史」の範囲に収まるように改変、遺棄したためとも言われます(『中国の神話伝説』)。そんなわけで三皇五帝の成立過程や何やらも大変ややこしく、これ以外にも諸説並立してますが、龍絡みで言いますと上にあげた感じが良いでしょうか。この後に述べるように伏羲・女媧は竜蛇神ですし、五帝の初代の黄帝もまた黄龍です。で、その後に続く帝も黄帝の子孫ですから龍ですね。顓頊などは『山海経』に魚のようにも書かれます。
治水工事で有名な禹王も、甲骨文に見る字形は二匹の蛇が交錯したものですんで龍神の側面を持ちますな(『龍の起源』『字統』)。ちなみにその治水の法を彼はとある洞窟の奥で邂逅した伏羲に習ったとされます。
もっとも子孫だから龍かというとどうなのよ、というのもありまして、むしろ後に述べる五行のどのエレメントを支配するのかで「龍化」するようにも見えます。例えば神農が龍であるという記述は見えませんが、この後裔の祝融(これは炎神)の子の共工は(この後出ますが)水を支配する神で、洪水を起こす暴龍です。
いずれにしても、中国皇帝とは龍の末裔である、というのが良く分かりますね。このように中国は龍=王となったのが最大の特色なんですが、無論このベースには全土に竜蛇を信仰する部族が多かったことがあるでしょう。上に述べたように統一帝国の公布する地域を越えた神性のイメージには各地の信仰の最大公約数を持ってくるのが安心なのは理の当然です。
このため、中国神話の伝承には「皇帝にならなかった」龍、すなわちイニシアチブをとらなかった部族の信仰していた龍たちもたくさん顔を出します。くわえて大本の龍が王となってますので、それぞれの龍もぞんざいに斬って捨てる悪となされることも無い。例えば『山海経』という最も古い部分はBC2C成立かともされる書物がありまして、ひとことで言うと中国全土の怪物紳士録みたいなものなんですが、パッと手元でカウントしても絵が載ってる「怪物」の1割が龍ないし蛇であるといった具合。この「王にならなかった龍」の集りには、あるいは世界中のドラゴンの類型のほとんどがいると言っても良い。王に従う龍、反旗を示した部族を象徴している龍、端的に大河を表す龍、天地日月の運行を象徴する龍、こんなのがみんないるのですね。
というわけで、この項では「王に連なる」龍、王としての龍を紹介し、次項で「王にならなかった龍」達を紹介していきます。
伏羲と女媧
さて、まずは伏羲と女媧。これは創世の神です。実際はこの二柱の前に盤古という神様がおり、これが世界を開闢し、伏羲と女媧が整えた、という感じです。その盤古もまた龍であるとの伝承もあります(一般には巨人とされる)。もっともこの盤古は道教の成立から生まれた様で、その発生は漢代より後になる様ですが。
伏羲と女媧は兄妹とも夫婦ともされる(ていうか兄妹で夫婦)神様。で、そのお姿といったら下半分は蛇なんですよ。龍神なんですね。伏羲は八卦の原理(知恵)を得てこれを人に伝え、女媧は人そのものを作り、世界を整備したと言われます。いま女媧というと封神演義だったりなんだりで大変な悪役の様ですが、本来は世界創造の神様です。また「八卦?」となるかもですが、これは「占い」だけでなく当時のあらゆる設計理論の根本です(今の風水です)。伏羲を描いた図には「差金」を手にしたものが良くありますが、要は土木の頭領ということです。この土木の能力が治水のイメージに繋がるのですね。
女媧の方は端的に天の底が抜け世界が大洪水に没しようというのをこの天の底を修繕したな土という感じ。抜けそうになった天の底を五本の柱を立てて支えたとされます。
この伏羲と女媧の伝説は、中央に入る前の「原形」が南方の少数民族苗族(ミャオ族)などに伝わっており、そこからの流入過程が「祖・龍・治水・皇帝」などのイメージがまとまっていく様子を良く物語ります。伏羲と女媧は中央で語られてきた神ですが、それぞれ独自の成り立ちを持つ神で(伏羲=盤古とも)、秦・漢代以前はバラバラに語られているのですな。夫婦とか兄妹とかいう話も無い様です。ここに少数民族たちの伝承が入ってきて伏羲と女媧の神話は形成されたのです(『中国の神話伝説』)。
この苗族は龍・ないし大蛇をトーテム(祖霊)とする一族で、その発端譚に伏羲と女媧がいました(名前は違いますが)。この二人は兄妹だったのですが、ある時二人の父親が雷神を捕まえてきてしまう。そして、兄妹にこの雷神に水を与えない様にと言いおいて出かけてしまうのですが、捕えられている雷神を不憫に思った兄妹は水を与えてしまう。
これにより力を取り戻した雷神は檻を破り、逃げてしまうのですが、水をくれた兄妹には恩義を感じ、自分の歯をひとつ残して行く。
やがてこの雷神の怒りか世界は未曾有の大嵐を迎え、全土は洪水に没してしまいます。しかし、兄妹の得た雷神の歯からは不思議な巨大瓢箪が芽生え、兄妹はこの瓢箪の舟に乗って洪水を生き延びることができました。
洪水が引き、そこにはこの兄妹だけが生き延び、人々(苗族)再生の祖となったのです(『世界の洪水神話』)。
これが彼らの祖霊でして龍神でもあるのですが、「洪水を生き延びる→洪水を治める知恵の由来」となり、「水をコントロールする存在」のイメージを持つ世界の祖であり、龍であり、夫婦(兄妹)である存在という形で中央へ吸収されていきます。この夫婦像が「創世と龍と治水」のセットとして三皇の伏羲と女媧となったのでしょう。
黄帝(五行説の基本)
伏羲と女媧に続く神農は別名炎帝とされまして(神農と炎帝は別だという伝承もある)、これは太陽神です。農耕を人に教え、自ら各地の植物を口にし薬効のあるものをまとめたともされる。この神農炎帝を南に追いやり王の座につくのが黄帝ですね。
黄帝はまた黄龍であり、土の徳、すなわち中央を支配する最高位の龍であるとされます。この辺いわゆる陰陽五行の五行説によってそうなるのですが、この先「ドラゴン:日本」などでもこの五行説は顔を出しますので、簡単に解説しておきましょう。
五行説とはこの世のすべてのものは「木・火・土・金・水」の五つのエレメントでできており、その関係性でそれぞれの現象を読み解こう、というもの。「もっかどごんすい」と読みます。十干十二支の十干とはこの五行をそれぞれ強弱に二分したもの。すなわち「甲(きのえ)・乙(きのと)」とは「木の兄(強性)・木の弟(弱性)」のこと。
この五行にはその関係性に「相生・相剋」というのがありまして、相生とは「木は火を生み、火は土を生み、土は金を生み、金は水を生み、水は木を生む」という生み出す関係。相剋とは反対に「木は土を剋し(力を削るという事)、火は金を剋し、土は水を剋し、金は木を剋し、水は火を剋す」となります。
これは方位やなどにも当てはめられ、これで中央が土の徳であるとなるわけです。また、五行はそれぞれの色を持ち(五色)「木-青・火-赤・土-黄・金-白・水-黒」となります。四方を示す聖獣に四神とありまして、「玄武(北-水-黒)・青龍(東–木-青)・朱雀(南–火-赤)・白虎(西-金-白)」となります。これはまた「五龍」というのもありまして、「黒龍・青龍・赤龍・白龍・黄龍(中央-土-黄))」となります。空間軸だけでなくて時間軸にも適応されますが、今回は割愛。例えば「四季」は五行では「春-土用-夏-土用-秋-土用-冬」という具合に間に「土」が挟まって「五季」となります。これは日本・中国の季節風習を見る上での基本的なポイントですね。
何故黄帝の項で五行説を云々してるのかと言いますと、黄帝はまさにこの五行説から生まれた王であると思われるからです。ちょっと殷周以前の由来を持つ古い伝承に黄帝がいるとは思えない。陰陽五行説は春秋戦国時代から諸子百家の時代の原始道教で発達整理されたと思われますが、その終末点、秦の始皇帝を持って「皇帝」の名が使われ、始皇帝は祖龍であると言われたのがこの成立由来を暗示しています。
以下タワゴトですが(笑)、秦は「法家」というきわめて実際的な思考を持つ一派を採用してその覇権を成したとされますが、始皇帝の不老不死への執着と言い、原始道教に傾倒していたことは間違いない。始皇帝は阿房宮の壁に自身の姿を龍として彫らせた。王が龍であるという思考そのものは殷の甲骨文字の史料にも見られますが、それを決定版として示したのが始皇帝であり黄帝の誕生である、というのは大変ありそうな話ですね。
この黄帝は先代の神農(炎帝)に対して、黄帝のとなえる仁道を神農が行わなかったので、黄帝と炎帝の大戦となるのですが(この二人は異父兄弟にあたる)、この辺りは漢代の儒教の影響も大きいでしょうか(『中国の神話伝説』)。ともかく秦−漢代には黄龍がいかに「頂点の龍」であるかは、ほぼ決定されていたでしょう。下って『述異記』などに書かれる有名な龍の序列(出世順?)なんかもこれに準じます。
まず蛇が五百年生きると蛟(みずち)になりまして、これがさらに千年生きると龍になる。この龍がさらに五百年経つと角が生えまして(この辺が四方を担当する龍)、さらに千年で四方の龍を統括するボスの「応龍」になる。この応龍が年老いると黄色くなりまして黄龍となるのだといった感じ。
いずれにしても、先史以来部族長・王が龍であるという漠然とした了解は広くにあったらしい中国ですが、クリティカルには始皇帝、あるいは漢代にかけて「皇帝とは地上の黄帝・黄龍である」という認識が決定的になった、された、ということになるでしょうか。
龍の類型
応龍・共工・河伯・燭陰
では引き続いては「王にならなかった龍」です。先にも述べましたが、王未満、という「縛り」があって多少皆おとなしく書かれてしまっているところはありますが、それでも多種多様な龍の類型が保存されているのが中国の龍です。もっともこれまた各伝承次第であれこれ異同があったり断片的なものですんで、この項で主に参照させていただいている『中国の神話伝説』にまとめられているお話に準拠してご紹介していきましょう。
応龍
応龍(オウリュウ)は、中国神話中最強ともいえる活躍を見せるとともに、中国龍なのに翼が生えてまして、大変格好が良い。これはドラゴンマニアには昔から大人気の龍ですからちょっと詳しく紹介しておきましょう。
応龍は五帝の祖・黄帝の時代の龍。黄帝の治世の際、かつて黄帝に敗れて南方に逃れた炎帝(神農)の部下の蚩尤(シユウ)が炎帝にリベンジをそそのかすのです。が、蚩尤は老いた炎帝にそんな気がないと知るや自ら大軍勢を組織して黄帝に挑む。そしてこれが中国神話史上最大の大戦争・涿鹿(タクロク)の戦いへと突入します。
蚩尤軍は大変強勢でして、濃霧を巧みに操って黄帝軍を惑わし、序盤は黄帝側が圧されまくる。しかし、そんな中で黄帝は蚩尤軍が龍の吼える声に弱いということを見抜きます。そこで黄帝は水を司る応龍を呼び出し、戦線に投入するわけです………が。最強をうたわれる応龍ですが登場はあんまりぱっとしません。水を司る応龍で濃霧も蹴散らそうとした黄帝側ですが、いち早く察した蚩尤側はより強力な風神雷神をたのんで水のコントロールを応龍に渡さない。どうして良いか分からない応龍はウロウロするばかりで黄帝ガッカリといった具合。
仕方なく自分の娘で鉄をも溶かす力を持つという「魃(ばつ)」をたのんで、戦地に日照りをもたらします。これで蚩尤側の水の力が封じられ、ここから応龍大活躍。ま、もともと応龍も水龍じゃねいの?という気もしますが(笑)、基本戦力も凄かったらしく、蚩尤軍を蹂躙します。応龍の咆哮は蚩尤軍を萎縮させ、そこを叩く。敗走しかけた蚩尤軍は、この後北の巨人族に合力を頼んで盛り返しますが、これも応龍の力にはとどかず、ふたたび蹴散らされまして最終的に黄帝側の勝利となったのでした。これが涿鹿の戦いの次第です。
そんなこんなで中盤以降は大活躍の応龍なんですが、最後もまたイマイチしまらない。もともと神様はあまり下界にいすぎると邪気に染まって天上に帰れなくなるという仕組みが中国神話にはあるのですが、魃と応龍もそうなってしまう。さらにこともあろうに黄帝はこの戦勝の功労者たちを忘れて天上に帰ってしまう。で、残された魃が地上をウロウロしますとその土地が日照りになって困りますので(これが「旱魃」の語源)、彼女は北の地から出ないように封じられます。一方の応龍は天に戻れなくてふてくされて南の地でガックリふて寝に入る。ですんで中国では北に雨が少なく南に雨が降る、のだそうな(『中国の神話伝説』)。
ま、最後はそんななんですが、応龍が黄帝の大変強力な部下であるのは間違いなく、また黄龍に次ぐくらいの龍であることは先に述べた龍の出世順を見ても分かりますね。応龍は黄龍の直下にあって、下の四方を統べる龍たちのボスにあたるのです。
その部下たちを引き連れての働きは下っての禹の時代に見えまして、禹の治水事業に際して上帝(尭)は応龍を遣わし、これを助けたとされます。応龍は部下の龍たちをともなって、禹を助けるのですが、応龍が主流・部下の龍が支流を掘ったという。これがまあ応龍がのしのし歩いて引きずった尻尾の跡が水路になるというのですから、何とも微笑ましい光景ですが。
さて、そんな「最強かつ従順」である龍が応龍でした。
んが、この最後の治水が次の暴虐なる龍・共工の逆鱗に触れます。もともと禹の治水はその前に起こった大洪水の後始末なんですが、この大洪水はそもそも上帝が共工に許した権限だったのです。下界の民が不届きだったら洪水起こして良いよ、みたいな。その権限をないがしろに治水とかしやがってどうなってるの?というわけです。
共工
共工(キョウコウ)は人面蛇身の赤髪の竜神で、洪水はこれが起こすとされます。もともとは長らく中央に恭順しなかった羌族が祀っていた神であるともいわれ、故に羌族そのものを暗示しているともされます。
この共工が禹の治水に怒って全土をさらなる大洪水で攻めるのですが、禹はこれに武を持って対することになる。その辺の戦いの記述は古書に無い様なんですが、会稽山に遍く天下の群神を集めたとされ、これは対共工のためだっただろうとされる。いかな共工といえどもVS全神ではどうしようもないでしょうから敗退した様ですな(『中国の神話伝説』)。
さらにこの共工は過去にも何度か洪水神として顔を出しており(というより伝承次第で出てくるタイミングが異なる)、もっとも古くかつ詳細なのは五帝の顓頊(センギョク)と戦った際のものとされます。顓頊は大変儒教的な色合いを投影された王でして、天地の神界と人界をきっちり分け、この行き来がならないようにしたと言われます。迂闊に神霊を持ち出さず、人の世は人の理で、という儒教的な思想の反映ですね。
その顓頊の世は事も無く安定した治世であったのですが、あまりにも「キッチリさん」だった様で、あらゆるものの「動き」を封じてしまった。太陽も月もずっと同じところにあり、大地も平板。このため安定はしているものの、人々も神々も大変窮屈であったと言います。で、この安定に反旗を翻したのが共工。相柳という九つの顔を持つこれまた人面蛇身の臣下とともに、不周山の麓で顓頊軍と戦う。これがどちらも譲らず中々決着がつかなかったと言います。ここでいきなり共工はプッツン切れまして、なぜか不周山に突進をかます。この不周山とはかつて女媧が世界を支えるために設けた五柱の一本であるとされるのですが、これを共工は体当たりでブチ折ってしまった。
これにて女媧–顓頊の作った世界の安定は崩れ、不周山のあった北西に向け天は傾き、星は再びその方へ回りはじめ、大地は逆に南東へ向けて下るように傾き、以降すべての河川はそちらへ流れ、海洋が形成された、のだそうです(『中国の神話伝説』)。
そんな共工でした。中国の歴史は中央と周辺部族の勢力争いの歴史ですが、共工はそんな周辺部族の動きを良く表していますね。訳も分からず暴れる、というのではなく上帝の政への不満で暴れる。そういった意味では洪水神ではありますが、単純に自然の驚異としての洪水を表すというよりも、上帝の不明が天地を乱すのだ、という中国の思想の反映であると言えましょう。
河伯
河伯とは黄河の化身で、白龍とも白い亀ともされ、大概は白面の美男子として現れます(この場合龍亀は臣下ということになる)。
これがまあ女ったらしでして(笑)、お供の龍亀にくわえいつも大勢の女性を従えて瀟酒な暮らしをしてるのだとされる。下っては毎年新しい妻を娶るのだなどとされるのですが、実際戦国時代(BC5–BC3C)の魏(三国の魏ではない)では生け贄として娘を黄河に流す風習があった様です。
天下の大黄河なんでそれだけ見ますとさぞや人々に畏怖を与え、そのような風習を生み出してしまったんだろうな……とも思うのですが、その後「皇帝」が立つにつれ、まったく威厳も蜂の頭もない様子になっていきます。この辺が中国の「自然神」の末路ですね。いずれ皇帝の前では力を失う定めなのです。
この生け贄のの風習を聞きつけた県令の西門豹という男が、これをやめさせようと決意を固める。彼はこの祭祀に参加して、今まさに流されようとする娘の顔を見て、「これは良くない」と言い、もっと器量の良い娘を選ぶから日を改めてもらう旨を河伯に伝える様、祭祀を行っていた老巫女を河に投げ込んでしまう。くわえて老巫女の帰ってくるのが遅いので様子を見てくるように次々と祭祀を執り行なっていた者達を投げ込んでしまう。で、最後に残った村人に「そなたたちも河伯のところに行きたくないなら、この祭りをやめて、家に帰ろう」と言う。いや、格好良い(笑)。
こんな具合で、この後も河伯は色々顔を出しますが、まるで偉大な黄河の龍とかじゃありませんで、むしろ人間側の現実的な才を強調する様な情けない役所で出てくることになります(『中国の神話伝説』)。
これは儒教的な怪神を語らずの精神によるところも大きいのでしょうが、皇帝以降は皇帝の龍以外が一定以上の畏怖を抱かせる存在になることまかりならんの不文律が形成されたのも大きいでしょうね。先の最強の応龍も治水の件ではなんだかのんきですし。
ちなみにこの「河伯」とは日本に伝わって「河童」の元になっています。いくつか河童を河伯と呼ぶ地域がありますね。下の龍の特性の項で述べますが、翼の無い中国の龍が飛べるのは頭に博山という特殊な器官があるからだとされるのですが、ここには水が入ってるという。で、この博山の水が枯れると龍は弱って力を失うと言われます。まるで河童の頭の皿と同じですね(『龍の起源』)。大陸から渡ってきた渡来系の人々に河伯を奉じる人たちがおり、この人々が河童の原イメージとなって日本全国に広まっていったのかもしれません。
燭陰
そんな感じで中国では「偉大な自然の力を象徴する」という怪神は、かつてはあったのでしょうが儒教以降は封じられて痕跡もまばらです。んが、ここに『山海経』というもっとも古い部分(『山経』の部分)はBC2Cの成立ともいわれる古典の地理書……というか怪物紳士録がありまして、その中には上に見てきた様な中央の立場で編纂された龍以前の龍の形を良く示すものがいます。
そんな龍が燭陰(ショクイン)。この絵は日本のものです。江戸時代の鳥山石燕のものですね。むしろこの絵の方がそのイメージを良く表していますので。
この燭陰はまさに天地創造を龍が行ったという伝承があったのだろうことを暗示する龍でして、これまた人面蛇身で長さが一千里もあるという。この燭陰が目を開くと天下は昼となり、目を閉じると夜になるという。「ドラゴン:日本」で龍の目が日月を表す、という点を指摘しますが、正にそれです。さらには息を吐くと黒雲が厚い層を成し大雪を降らせると言い、息を吸うと真っ赤な太陽が照りつけて夏が来ると言う。何も食べず、何も飲まず、鐘山に縮こまって伏せ、世界を照らしつづけているというのですから、創世の龍のイメージそのものであると言えましょう(『中国の神話伝説』)。中央の神話の整備で北方の鐘山にひっそりと封じられていますが、もとはこの地域の人々の創世神であったことは想像に難くありません。
先の共工ももとはこの共工を最高神として奉じる羌族なりなんなりの存在があったことを暗示させるのですが、儒教以前に語られる膨大な怪神、それはほとんど色々な獣のハイブリッドな姿をしたキメラなのですが、それらは統一以前の各地を統治していた部族の神・トーテムであると思われます。もしくは(必ずしもトーテムであるとの記述はないともされますので)「部族印」ではあるでしょう(『神と獣の紋様学』)。
神話に見る中国の龍とは大体このような感じ。一方で創世と王権の由来である龍がおり、その周辺に従う龍も従わない龍もいる。古い史料には帝国成立以前の形を残す龍も見える。さらに蛇神信仰へも視線をのばせば、はるかに膨大な竜蛇の世界が広がるのが中国です。
では、次に問題とするのはそのような龍のイメージが成立してくる過程と、燭陰の様な、あるいは共工の様な、統一王朝に「ならなかった」人々の奉ずる神との関係です。
応龍の活躍した涿鹿の戦いというのも、黄帝・蚩尤の各軍入り乱れての大騒ぎなんですが、この軍というのは「人間」ではない(人間もいますが)。蚩尤からして銅頭鉄額で獣身、あるいは人身牛蹄で四目に腕六本という怪物ですが、まずこの兄弟が八十一人軍勢にいる。さらに魑魅魍魎などの山精水怪に、人間は黄帝の末裔ながら中央に軽んじられて頭に来ている苗族くらい、という怪物軍団です。迎え撃つ黄帝軍も四方の鬼神に熊羆、もうなんと言いますか「今の字では漢字にも打てない様な(笑)」豹みたいな虎みたいな野獣の群れ、これに応龍です。要は涿鹿の戦いというのは怪獣大戦争なんですね(『中国の神話伝説』)。
そして、この辺りの「獣のハイブリッド」としての各部族の王を示す部族印の最たるものが龍であるのだと思われます。
漢代の王符によると「龍」とはもともと九種の動物のキメラなんですが(頭:ラクダ/角:鹿/目:兎/頸:蛇/腹:蜃/鱗:鯉/掌:虎/爪:鷹……これを「九似説」と言う)、そこに至る道として様々な「キメラの王」達がいたのであろうと思うわけです。
それは殷周時代の青銅器に表現される一般に饕餮紋と言われる図像に見える組み合わせの方法論のことです。この中から決定版としての龍は出てきた。では、一旦神話の世界を抜けまして、この青銅器の図像を見ていくことにしましょう。
青銅器の図像
このページ頭の新石器文化時代のあれこれに関しては黄河流域のものばかりを扱いましたが、後半にちょっと付け加えていた面の様な玉器、あそこから殷周の青銅器は始まります。
この玉器は南の長江流域の「良渚(リョウショ)文化」(BC4000〜3000紀)に見られるもので、お隣黄河域の龍山文化圏とも呼応しつつ、殷の青銅器紋様の先駆けとなっています。だからその辺が「夏」王朝なんじゃん?という向きもありましょうが、総合的に良く分かりませんので、えぇ。
さて、こちらには北の紅山文化や仰韶文化にあったような「いきなり龍」というのは無い様ですね。むしろ龍の起源仮説のひとつには長江河口域に生き残っていたワニたちが伝説化したのだ、というのがありますが、だったら良渚文化圏にしこたま「ワニ竜」像がありそうですが……ちと見かけませんな。
その辺りはむしろ先に見た下って成立する神話が良く示していまして、北は雨がないので龍を象って雨乞いを良くしたし、南は雨ばかりなので端的に太陽神を信仰したと、そんな感じです。
良渚文化の玉器
この玉器も、火の鳥としての太陽神を表しています。一見イタチか何かの顔みたいですが中段の目玉模様はむしろ飾りで、実際空いてるふたつの穴の間から上の位置に神が描かれています。逆台形の部分が顔です。
注目しておきたいのが、目玉状の紋様をメインに入れることと、全体をびっしり地紋で埋めていることでしょうか。これらは端的に殷の青銅器に繋がる特徴ですね。穴が開いている方の「目」が重要で、どうもここを実際の太陽光が通ることが重要な宗教儀礼だったらしい。この後でも太陽(月)が「目」として表される感覚が重要となってきます。
前置きが長くなりましたが、そんな感じで生まれてくる殷周の青銅器、そこに見られるいくつかの特徴が後に「皇帝=龍」という頂点が固まっていく上で大変重要であるかもしれない、と言うことなのです。
殷周青銅器
殷周時代の青銅器とは大体こんな様なもので、大概バーンとなんか恐ろしげな顔がある。これは一般に饕餮(トウテツ)紋と言われ、饕餮というバケモンを表しているのだと言われますね。んが、どうもこれは違うらしい。饕餮である、と言われたのがすでに漢代で、この殷周期の青銅器が流行ったのが宋代。そのくらい下った時代に「あれは饕餮なのである」とウンチクがついて流通したのでそうなった、と言うことらしいです(『神と獣の紋様学』)。
そもそも饕餮というのは神話の項に見た蚩尤のことなんですが、殷周時代に皆がこぞって蚩尤を祀るというのは意味が分からない。ていうか殷に蚩尤伝説があったかどうかも怪しい。
ま、ここで引っ張ってもしょうがないので結論を言いますと、この顔状の紋様はいくつかの限られた種類の動物を示していることが分かりました。かなりこの面紋はそれぞれのパートの意味が決められたルールに則って描かれているのですが、目の上の角の位置の形状が「何の動物」であるのかを示すパートです。こんな感じ。
トラ紋
羚牛紋
羊紋
イヌワシ紋
この他に水牛/牛/鹿などもある様です。
で、どうもこの「限られた動物たち」というのが殷の時代の王に連なる氏部族の「しるし」だったんじゃないかとされる。ウシ族であるとかイヌワシ族であるとか言うわけです。この獣面紋が一体なぜ青銅器にあるのかと言いますと、要は魔除けです。そのパッチリした目で「破邪」となるのがこの面の役割です。器全体が地紋で埋めつくされているのも特徴ですが、これも「すき間」があるとそこから「邪」が入ると考えられたからです(『神と獣の紋様学』)。
そんな「破邪」の面ですから、当然自分の氏部族を象徴する動物(最も自分たちを守ってくれる動物)の面をこれにしたのでしょう。つまり、発見されている「限られた動物面」とは殷周時代の有力氏部族の全体とほぼイコールなのかもしれません。殷王以下には牛族・羊族・鹿族・虎族・イヌワシ族が集って国はできていた。そのことを青銅器は物語っているのかもしれませんね。
そんな青銅器でした。全然龍の話じゃないじゃん、という感じで恐縮なんですが、実は、この動物印をまとめたのが龍なんじゃねえ?と、こういうことなんですよ。
各支部族をまとめるのが王なんですから、各支部族の動物印をまとめたら龍になるじゃない。
先にも述べました龍の外見的特徴を成す九似説は…
頭:ラクダ/角:鹿/目:兎/頸:蛇/腹:蜃/鱗:鯉/掌:虎/爪:鷹
なのですが、これは漢代に言われたもので、漢代といったらそもそも殷周の青銅器は饕餮紋だと言ったくらいの(殷周からしたら)未来です。ですんで、蛇・鯉・蜃(ミズチみたいなもの、またはお化け蛤で蜃気楼を見せるという妖怪)を要するに「蛇体」として、そこに青銅器にみえる部族印の獣を集合させたら……
九似説
頭:ラクダ/角:鹿/目:兎/頸:蛇/腹:蜃/鱗:鯉/掌:虎/爪:鷹
部族印の集合
頭:牛羊/角:鹿/目:日月/頸腹鱗:蛇体/掌:虎/爪:イヌワシ
てなもんですよ。
龍の目が「赤い(光る)」のを兎の様だとするのですが、これが赤いのはそもそも太陽と月を象徴しているからです。で、青銅器の目玉紋様の源流に太陽があるのはこの項先頭に述べた通り。
やはり急速に「中国龍」の造形(九似説的なハイブリッド感)が形成されてくるのはこの殷周の青銅器においてなんですが、そこにはこんな流れがあったのかもしれません。
えぇ、かもしれません(笑)。
この項、青銅器の動物紋様(獣面紋様)が各氏部族を示す動物印であることは言われますが、それをまとめたのが龍だなんて仮説・説明はどこにもされてませんでした。つまりここだけの相当勝手な仮説ですんでどうぞ、よしなに(笑)。
龍脈・龍玉・逆鱗
という感じで八方破れではありますが中国龍の造形の起源への仮説も示しましたので、後は二三の中国龍にまつわるトピックスを記しまして、まとめに入ろうかと思います。
龍脈
中国の龍と言ったら龍脈ですが、何気にこれは由来が良く分からない。上に見てきた様に甲骨文なんかでは「竜」はあるいは「雲」あるいは「雩」という文字に隠れている様に、明らかに天空の現象に関わっている。先史時代の墳墓のところでも指摘した様に、星座「龍座」は一年のサイクル(農耕的な)の指針としてまずあった。転じて雨・治水・植物の繁茂、というところですが、いずれにしてもこの辺りには「大地」のコードは見られないのですね。
先の三皇五帝のひとり「黄帝」がまた黄龍であり、黄色は五行の中央・土の徳である事から黄帝が大地の龍である事が示されますが、逆に言ったらようやくそのくらいになって、という感じでしょうか。
あの頃「土徳」が最重要となったのは、何はともあれ治水(土尅水)が必要だったからだと思いますが(実際続く五帝は治水ばかりしている)、治水としての土徳が山脈の流れが龍脈であるという壮大さにすぐなるかと言うと微妙です。
もとより大地に気の流れがあるとし、山脈の連なりなどに投影してそれを龍脈というわけですが、この辺りはやはり本家がインドのプラーナとナーガの関係でこれが春秋戦国から漢に至る時代に流入し取り込まれた、という感じじゃないかしら。何気に陰陽五行が整備されるのもその辺ですしね。場合によっては「龍脈」のイメージが大きな流れになるのは漢代の仏教伝来以降かもしれません。
という事で「龍脈」の由来は「ドラゴン:インド」の方で、としますが、これが本家中国というイメージが強いのは「風水」の流行とともに、本邦では怪人・荒俣宏が「帝都物語」などで大々的に取り上げたのが大きいでしょう。
この辺りで龍脈の操作・四神照応の地・レイライン………といったオカルトアイテムが大人気となったのですが、やや「ドラゴン」からは外れながらに大物となりますので(笑)、別項にて。
あ、ただし、壮大な思想としての龍脈ではなくて、「大地の力」という旧石器時代由来の素朴な発想は中国に限らず全世界的にあったですし、その感じは「ドラゴン:日本」で詳しく扱います。中国でも蛇を倉・家の守り神であるとするとか(白蛇信仰)、民間で道教が普通に信仰されるようになって後ですが、日本の神社にあたる「廟」に「蛇王廟」というのがあるのですが、これが風水的な要所に建てられ、拝まれています。これは龍脈の思想が成立して以降広まったのでしょうが、それ以前からの土地神としての蛇信仰がベースにあるのは間違いないでしょう(『蛇の宇宙誌』)。
龍玉
玉。大概中国龍の造形は玉を持ってますね。また、中国のお正月の龍舞は竜の顔前に玉を持ってきて誘導するものが多いですが、あれも同じものでしょう。この玉は本来手に持ったりするものではなく龍の顎の下にあるのだとされ、龍が体内から発した雷の塊なのだともいわれますが、おそらくは太陽と月の象徴でしょう。既に伏羲と女媧を描いたものの多くに太陽と月が描き込まれています。インドから本邦日本へ渡る一帯では、龍神ラーフが蝕神(日食・月食を起こす)とされる伝承の系譜があり、中国の龍にもその影響は大きくあろうかと思われます(『幻想の国に住む動物たち』)。
香港の龍舞
また、燭陰のところで見ましたが、龍の「目」が日月を表す、というのも重要です。良渚文化の玉器の穴が重要なんだと書きましたが、もう少し詳しく書きますと、あの穴をスリットとして地面なりスクリーンなりに太陽光を絞って投射する、その投射された光の○こそが太陽神の現れなんだと、そうやって人々はその光輪を拝んだわけです(『神と獣の紋様学』)。
さらに龍の九似説で目が兎の目だというのは龍の目が赤く光るからだと、それが日月を示すからだと紹介しましたが、下ってはあの目は「鏡」であるとされる。この鏡というのが日月の象徴であるのは日本のわれわれにはかえっておなじみかもですが、これも形がまるいからとかではなくて、この鏡に太陽光を反射させて皆にその反射光を当てることが重要なパフォーマンスだったと考えられています。上の玉器のスリットが発展したものですね。
「龍−目−鏡(穴)ー日月」のコードはこうして繋がっていきます。
おそらくこの「目−鏡」のコードが鏡が当たり前のものになって特に太陽信仰などとは関係がなくなるにつれ、龍は日月を象徴する玉を持つ、ということになっていったのでしょう。
このあたりは本邦の昔話に海幸彦・山幸彦のお話があります。塩盈珠・塩乾珠ですね。竜宮に行ってそういう玉をもらってくるわけですが、この玉にはその名の通り、潮の満ち引きをコントロールする力があって…というヤツ。また、竜蛇神を信仰していたであろう出雲の頭領の大国主も因幡の白兎のお話で「玉」を手にしています。
詳しくは「ドラゴン:日本」で扱いますが、これが上の龍の玉の系譜だとすると龍の権限(?)の拡張とともに、そのコントロール範囲も増えてきたのだと言えるでしょうね。管轄が光そのものではなく潮の満ち引きに拡張している。特に当時の人が潮の満ち引きが月の動きに依拠していることを知っていたらしいのが面白いところです。
逆鱗
龍は81枚の大鱗を持つとされますが、このうち一枚が逆さに生えており、これを逆鱗と言います。龍は良く扱えば人に慣れる神獣とされますが、この逆鱗に触れてしまったらそれまで。龍は大暴れをはじめ、周囲の人を皆食い殺してしまうのだ、とされます(『龍の百科』)。
この逆鱗は秦代(というより戦国末期)の韓非(「韓非子」の韓非)が、帝への進言法を指南する上で創作したお話だともされます。が、81枚という鱗の数からして九星系のなにがしかの伝を暗示するものの様にも思えます。
韓非は法家のエースですが、彼と始皇帝の関係というのも少し押さえておきましょうか。何となれば「皇帝=龍」を決定づけたのはおそらく始皇帝ですし。法家は他の諸子百家に比べて大変現実的な社会制度で統治をすべきとする一派ですが、始皇帝(まだ統一前ですが)は、これに惚れた。韓非はその名の通り韓の国にありましたが、そこでは採用してもらえず不遇だった。んが、始皇帝はその韓非の著作に触れ、この韓非と話せるならもう自分は死んでもいいとまで言う。当時の秦の政策は韓非と同門の李斯が執り行っていましたが、これが上手いこと誘導して韓非は秦にやってくることになります。
しかし、あろうことか韓非は口下手だった。始皇帝は著作ほど韓非の話には感心できずに「あれ?」となってしまう。しかも、兄弟子の李斯は韓非の恐ろしい才能を知ってましたから、今回は韓非の口下手で助かったが、先に行っては自分の地位が危ういとばかりに韓非を毒殺してしまう。あわれ韓非。
ということで韓非自身は逆鱗を云々するまでもなく悲運の最期となるのですが、この時代背景を見てみると韓非の言う「逆鱗」が皇帝のご機嫌を損ねちゃいかん程度の話なのかどうか微妙です。
上に見たように皇帝が龍であるのは多くの氏部族を束ねる象徴であるのが第一です。殷の時代は血縁氏部族だったでしょうが、韓非の時代ともなれば束ねにゃならんのは広域の戦国国家群です。これが龍の81枚の鱗ではないのかしら。その内一枚の逆鱗というのはウィークポイントとなる国のことではないのかしら。事実、後の中国の歴史はこのウィークポイントとなる「ある地域」を治め損なうことにより統一国家→列強入り乱れての旗取り合戦のサイクルを繰り返します。81という数字が9×9の九星(八卦+中央)という国土全域を暗示するマトリクスだとすれば、逆鱗とは単なるご機嫌取りの話ではない可能性は高いと思います。
広域統治には必ず「鍵・逆鱗」となる諸国の力学上のウィークポイントが発生する、そこを治め損なうと龍は暴龍となり統一は霧散しますよ、韓非はそう言ったのじゃないかしら。むしろ「逆鱗」の話をよくよく噛み締めなければならなかったのは臣下ではなく、龍である始皇帝自身であったのかもしれません。
まとめ
ここまでに見た様に中国の龍はおおよそ漢代にはその性質・形状を確定させ、現代にまで伝えられます。重要な特徴はやはり皇帝と直結したところ。「龍」は天空のコードとして始まり、水の質を表すものになり、治水の象徴となり、大地の気の流れとなり……自然のすべての性質の象徴となったわけですが、これを制御するのが皇帝・龍の化身であったのです。
それはまた「人の理」における氏部族を束ねる存在としても象徴される。中国龍の色々な獣のハイブリッドな造形というのはそれぞれの獣=自然ではなく、それぞれの獣=氏部族の部族印であり、それを束ねるところから「九似説」に連なる龍の造形が出来上がってきた……のじゃないかしらと。
もともと特に東洋においては「王」とは戦時は国の戦闘力の要かつ統率者ですが、平時においては国土に安定した「気象」をもたらす責任者だったのです。中国皇帝も古来龍に雨乞いの祈祷をしましたが、この龍への雨乞いは皇帝の主催だったのです(荒川紘「龍の起源」)。日照りなどの天候不順は皇帝の不徳の致すところ、という事で反乱が起こる。反乱を起こすのは「龍」を構成する動物たちの印を持つ氏部族です。こうなると「龍の形」は瓦解する。自然と王は直結するというよりも間に「人の理」というワンクッションを置くのですね。
中国ではその現象のすべてを「天・地・人」のいずれかのレイヤで捉えます。そして、その焦点に立つのが皇帝であり、その集約が上手くいっていることを示すのが龍の造形です。皇帝は龍顔である、皇帝は青龍に乗る、皇帝の服を袞龍(明・清代で龍袍)という。これらは皇帝の権威付けというよりも、皇帝の背後にそのような龍がちゃんと表れている状態が統治が上手くいっている状態である、というイメージによるものと思われます。
龍とは王である。
あるいは、王とは龍である。
これは、「そこ」に届いた王が龍である、という天地人を集約統治する王の完成形を示す指針であるのだと言えましょう。
おまけ
いやはや、書き直してびっくりの長編化。でもまあ天下の大中国の龍ですからこれが本来妥当な線かしら。続く各地のドラゴンを紐解いていっても、「さて中国ではどうだったかしら」と振り返ってみることになる様な龍の国・中国でした。
後はおまけですが、十二支のうち唯一実在しない生き物としても有名な龍ですが、実のところ龍が「架空」であるというのがどこまで妥当かというと微妙です。東洋では龍は「いる」と思われてきた、と思った方が良いかもです。
竜骨。あるんですよね、これは。上の甲骨文字発見のくだりにもある様に漢方薬の原料としても珍重される。無論まがい物が多いのでしょうが、「実物」もあるのです。え?何トチ狂ってんのですって?いえいえ、化石ですよ。恐竜の化石。
漢方薬の「竜骨」は実際は哺乳類の化石であることがほとんどの様なのですが、ご存知の通り中国大陸には恐竜の化石も良く出る。昔から人々はこれを知っていたのです。なんか知らんがクソデカイ蛇っぽい生き物の骨がある、と(実際竜の骨が土中から得られた、という記録もあります 『竜の百科』)。○億年の地球史なんて現代になるまで想像もなかったですから、昔の人があんなもん見ちゃったら「いる」と思って当然です。大規模な断層でそういったのが発見され「龍脈」のイメージが補完されていったのじゃあ……とあたしは思うのですよ。ま、学会では「それは無い」扱いの発想みたいですが……いや、これはあっただろ(笑)。
参考図書
参考にした手持ちの資料はいくつかは"絶版"の模様なので簡単に。大きい図書館などにいったらある……かも。太字は現在も出版されている模様です。
・白川静『字統』平凡社
・林 巳奈夫『龍の話』中公新書
・林巳奈夫『神と獣の紋様学』吉川弘文館
・稲畑耕一郎/監修『図説中国文明史1』創元社
・袁珂『中国の神話伝説(上下)』青土社
・池上正治『竜の百科』新潮選書
・福田哲之『文字の発見が歴史をゆるがす』二玄社
・荒川紘『龍の起源』紀伊国屋書店
・篠田知和基・他『世界の洪水神話』勉誠出版
・久保田悠羅とF.E.A.R.『ドラゴン』新紀元社
・ジョン・チェリー『幻想の国に棲む動物たち』東洋書林
直接ではないものの参考としたもの
・白川静『中国古代の民俗』講談社学術文庫
・林義勝『龍伝説』NHK出版
(中国・日本の龍・蛇像の写真集 見つけたらラッキー)
・小島瓔禮『蛇の宇宙誌』東京美術